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【 法恩寺の宝物 】

【 大日如来 】

大日如来法恩寺の本尊は大日如来で、木製、像高は65センチ、宝冠をかむり、法衣をまとい、胸前で智挙印を結び、右足上に坐す金剛界の大日如来像です。
制作年代は12世紀後半頃と伝えられています。

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【 絹本着色高野明神・丹生明神像 】 (明治39年国指定)

【 高野明神像 こうやみょうじん 】 縦100cm 巾55cm

高野明神絹本着色(けんぽんちゃくしょく)の本画像は神が仏に姿を変えて現れたとする本地垂迹(ほんちすいじゃく)の思想が奈良時代から平安時代にかけて広められたが、この画像もその考え方を表現したもので二幅からなり鎌倉時代末期の作風があります。高野丹生明神は弘法大師空海が高野山を開いた時、大師を誘導したといわれる二神で、高野明神は犬を連れた狩人姿、丹生明神は桂袴の美しい女人像として描かれています。図の上方には高野明神は金剛界大日如来の種子が、丹生明神には胎蔵界大日如来の種子が描かれ垂迹画と明示してあります。両幅とも鎌倉時代の作風で、御鳥羽院の宸筆が右上部にあり、源頼朝の寄進と伝えられています。

【 丹生明神像 にうみょうじん 】 縦100cm 巾55cm

丹生明神本図は、高野山の地主神である高野明神と丹生明神を描いたものである。高野明神は弘法大師空海が高野山に入山した時、白黒二匹の犬を伴って狩人の姿で現れて空海を先導したといわれ、狩場明神とも呼ばれている。丹生明神は、正式には丹生都比咩神といい、高野明神の母とも妻ともいわれるが、通例に従って、女房装束で表現されている。二神の頭上には月輪があり、高野明神は「バン」(金剛界大日)、丹生明神は「アーンク」(胎蔵界大日)の種子が記されており、神仏習合の一端を示している。丹生明神の面貌が丸い以外は、高野山金剛峰寺に伝わる「狩場明神・丹生明神像」と構図的にも似通っているが、衣の表現等にやや類型化が見られ、金剛峰寺本を写したものと思われる。類例が他にも知られているが、その中では比較的早い時期の写しとして貴重な作品である。

【 絹本着色釈迦三尊及阿難・迦葉像 】 (大正3年国指定) 縦119cm 巾62cm

釈迦如来釈迦像(絹本着色の釈迦像で中央に釈迦如来、その両脇に文殊菩薩(もんじゅ)、普賢菩薩(ふげん)、阿難尊者(あなん)、迦葉尊者(かしょう)を描いたものです。釈迦は正面を向き、右手第一指と第二指を捻って掌を前に胸前に置く。掌には金泥で転宝輪が描かれている。左手は第一指と第四指を軽く曲げ、胸には金泥で卍が描かれ、右足を上にして結跏趺坐(けっかふざ)する。左脇の阿難と思われる僧形は合掌し、迦葉は壺を胸前に奉じている。左下の菩薩像は正面に阿弥陀の化仏を付けた宝冠を被り、右手は第一指と第四指とを捻り、掌を上にして右膝上に置き、左手は楊柳をとり胸前にかかげ、紅色の蓮台上に結跏趺坐する。像容から観音菩薩と思われる。右下の菩薩像は右手に蓮華を持ち、左手は第一指と第三指を捻って掌を下に向けて膝前に置き、白蓮華上に結跏趺坐する。両菩薩の左右の足は衣で隠さず、甲を露出している。中尊の釈迦をはじめとして各尊の手の爪が長く伸ばされるなど、中国の宋・元画の特徴が強く表れている。画面最下段には、朱色で短冊形を置き、十五行に渡る香徒名(高麗香徒の列名)および「天暦三年」我が国の元徳2年(1330)の中国元代の年号が墨書きされ張思恭の筆と言われています。本図は中国で製作され、日本へもたらされたもので、当時多く見られた大陸からの舶載画の好例ということが出来る。

【 絹本着色両界曼荼羅図 けんぽんちゃくしょくりょうかいまんだら 】

胎蔵界本図は金剛界(南北朝時代)と胎蔵界(室町時代)とで制作年代に違いがある。
胎蔵界曼荼羅は南北朝時代を降らないと考えられ、これまでのところ埼玉県下最古と考えられる。
胎蔵界 縦141.3センチ 横121.8センチ

金剛界金剛界曼荼羅(南北朝時代)の方は胎蔵界より時代が新しく補筆が認められる。
金剛界 縦141.2センチ 横121.8センチ

【 法恩寺年譜 】 (昭和38年町指定)

法恩寺年譜法恩寺年譜は二巻より成り、一巻は元禄9年(1696)第21世主温が編したものであり、もう一巻は宝永元年(1704)第22世英範が客僧である白玄天龍に命じて書かせたものであります。第一巻は簡略なものでありますが、第二巻は天平10年行基大士の記事から稿を起こし、以後、中世越生郷付近において活躍した越生氏を初めとする浅羽・小代・毛呂・吾那などの武士団が居たことが明らかにされ、かつ、中世における田一反の売買値段、年貢の実態が記されており地方史研究にとって極めて貴重な歴史資料といえます。年譜は江戸時代法恩寺が江戸城に於ける将軍への年賀の礼に「独礼の座」を有していたことから寺格が高かったことが明らかにされ、また、末寺(孫寺は含まず)は南は飯能市、東は川島町、北は東秩父村まで42ヶ寺を数えることができます。第二巻は享保13年(1728)で終わっており、行基大士の天平10年からみると約千年の歴史を綴ったことになります。

 

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